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いまさらながら、NY Times記事訳(2014.2.14)そして、はじまりの終わり

ソチ金メダル

『覚醒の時』、よかったですね〜!
予想以上の内容で、見ているだけで、胸が熱くなりました。

えっ?
BDプレイヤーがないのに、どうやって観たのかって?
それが語ると長い物語でして……。

時は3月はじめにさかのぼります。
Amazonで『覚醒の時』のBDを予約。
あとはBDプレイヤーを入手するのみ。
そこからは涙ぐましい努力のはじまりです。
家族との会話の端々で、我が家のDVDレコーダー&プレイヤーの調子がわるいことをアピール。
「さいきん、DVDに録画しようとしても、できないことが多いんだよね」とか
(これはほんとだけど、DVD自体が安物だったせい。ちょっと高いのを買ったら不具合は解消)、
「やたら、異音がするんだよね〜」とか
(これもほんと。でも、故障はしていない。ちょっと大きいだけ)。
それをくり返すこと、数か月。
ついに『覚醒の時』発売!
ほんとうはその前に買い換えたかったけど、ばたばたしているうちにタイミングを逃してしまいました。
でも、ぶじにBDレコーダー&プレイヤーの導入決定!

……と思ったら。
我が家にあるPS3でBDが見られることが判明。
数か月間、『名探偵コナン』ばりの伏線を張ってきた私って……。
「DVDプレイヤーの調子がわるい」アピールの小芝居をくり返してきた私って……。

いえ、でも、これで今度からBDに落とすことができるので万々歳なんですけどね。あいかわらず、空回りしている自分にがっくりしただけです。

さて、タイトルどおり、ほんとうにいまさらですが、ソチ・オリンピック金メダル獲得時のNY Timesの記事をご紹介します。

この記事訳は複数、ネット上にあるらしいのですが、ある方から、ぜひcocoさんの訳で読みたい!という脅迫……じゃなかった、熱烈なリクエスト(DIM、土下座・イン・ザ・メール!?)があったのと、自分でも訳してみたいとずっと思っていたからです。

なんといっても、羽生選手のスケーター人生における輝かしい瞬間であり、彼の金メダリストとしての人生がはじまった瞬間の記録ですから。というわけで、5か月も前の記事ですけど、よかったら読んでくださいね。

………………………………………………………………………………………………

日本の羽生結弦がフィギュアスケート男子シングルで
金メダルを獲得

ジェール・ロングマン著
2014年2月14日

NYTimes.jpg
世界ランク1位の羽生結弦が日本初のフィギュアスケート男子シングル金メダルを獲得。ジェームズ・ヒル撮影。

ロシア、ソチ――日本の東北地方を恐ろしい地震と津波が襲ったとき、羽生結弦はリンクの上にいた。彼が16歳のときだ。氷が音を立てて揺れ、地面がせりあがり、立っているのもおぼつかない。彼はスケート靴を履いたまま、リンクから逃げ出した。エッジケースをつける余裕さえなかった。

2011年3月のその日は恐怖そのものだった。(不安な一夜があけたあとも)、その3年後、羽生がオリンピック・チャンピオンになるとは想像もつかなかっただろう。フィギュアスケート男子初の金メダリストになるなどと考えることもなかったし、オリンピックの表彰台に乗るとは思いもしなかっただろう。だが実際、彼は2月14日、その表彰台に乗ったのだ。銀メダリストのカナダのパトリック・チャン、銅メダリストのカザフスタンのデニス・テンとともに。

羽生の故郷である仙台は震源地から近い。ホームリンク下のパイプは破裂し、氷が溶けた。リンクは、数か月間、閉鎖された。自宅の壁には亀裂が入った。彼と両親と姉は電気も飲み水もない状態で取り残された。一家は避難所である体育館で4日間をすごした。

揺れがおさまっても、羽生は震災当時の記憶に悩まされつづけた。彼はジャンプを跳ぶときにもイメージトレーニングを重視しているが、いまや彼の心の目に映るのは地震の瞬間の光景だけだ。16歳で人生が終わるのではないか、つぶれたリンクの下敷きになってしまうのではないか、その恐怖が消えなかった。諦観がじわじわと彼をむしばんでいく。

「『あって当然のもの』なんてない」19歳の羽生が2年前に出版した自伝『蒼い炎』には、そう記されている。

この震災によって、彼の「価値観は大きく変えられてしまった」のだ。

やがて、その諦観は目的意識へと変わっていく。
「いまはとにかく、1日1日を大事にしたいと思う」と『蒼い炎』の中で、羽生は語っている。

2012年12月、羽生は重要な国際大会、グランプリファイナルに出場するため、ソチを訪れた。コーチであるブライアン・オーサーとともに黒海沿岸を歩きながら、彼は言った。「オリンピックで優勝したいんです」

オリンピック出場のためにソチをふたたび訪れたとき、羽生は2月13日のショートプログラムで伸びやかなジャンプとスピンを披露し、101.45点という史上最高得点を叩き出した。金メダルはすぐ手の届くところにあった。

NYTimes2.png
フィギュアスケート男子シングル。左から、パトリック・チャン(カナダ、銀メダル)、羽生結弦(日本、金メダル)、デニス・テン(カザフスタン、銅メダル)。チャン・W・リー撮影。

「彼は情熱のかたまりだ。しかも、もっともむずかしいことを、まるで簡単なことのようにやってのける」1984年のオリンピック・チャンピオンであるスコット・ハミルトンが話す。「これはほんとうに賞賛すべきことだ」

しかし、ショートプログラムとフリープログラムのあいだに休日はない。感情や重圧をいったん鎮めて、改めて立て直すだけの時間はなかった。

その日、羽生は練習中から緊張がうかがえた。フリープログラムがはじまると、最初のジャンプの4回転サルコウで転倒。4回転を試みるも、着氷に失敗した。 続いて、3回転フリップでお手つき。焦りが芽生え、脚が重くなっていく。

「金メダルが遠ざかったかなという感じはしました」と羽生は話している。

これがほかの日なら、負けていたかもしれない。

世界選手権三連覇中のチャンは、ショートプログラムを終えた時点で、1位の羽生と約4点差で2位。しかも、ジャッジにカナダ人はいない。安全策をとるという選択肢はなかった。

「オリンピックにのぞむのなら、全力で立ち向かっていくしかない」とチャン。

序盤の4回転トウループ+3回転トウループのコンビネーションは安定していたが、彼は疲れを拭い切ることができなかった。なんとか自信を取り戻そうと奮闘するものの、優勝の可能性が潰えるのに時間はかからなかった。

4回転トウループとトリプルアクセルでお手つき。ダブルアクセルも乱れた。芸術の域に達するエッジワークとスケーティング技術も、彼を1位に押し上げることはできなかった。

「はっきり言って、こういう試合では、いちばんミスが少ないのがだれかで決まります。わたしはミスがひとつだけ多かった」

羽生は総合で280.09点をマークし、1948年に最年少の18歳で金メダリストとなったディック・バトンに次ぐ、若きオリンピック・チャンピオンとなった。23歳のチャンは275.62点で銀メダルを獲得。フィギュアスケート男子シングルで、カナダ人がオリンピック金メダルに輝いたことは一度もない。2位で終わる悲劇がくり返されてきた国なのだ。

20歳のテンは2013年の世界選手権でチャンに次ぐ2位につけたが、オリンピック・シーズンの重要な大会を、全身に広がる感染症で欠場(※)。それでも、しっかりと調整して、ショートプログラムの9位から追い上げ、255.10点で銅メダルを獲得した。それは旧ソ連のカザフスタンにとって、フィギュアスケート初のオリンピックメダルでもあった。

意気揚々とするテンに対し、羽生に浮かれたようすはなかった。
「自分の演技には満足していません。緊張しましたが、金メダルを獲ることができました。日本の国旗を掲げることができました。それは誇りに思っていいことだと思います」

3年前には、この結果は実現不可能に思えただろう。地震のあと、羽生は何か月もホームリンクを失った。そして練習拠点を横浜に移した。事故のあった福島第一原発から遠く離れた場所だ。それでも、高校に通うことはままならなかった。彼は東日本大震災チャリティ演技会に出演すると、練習を兼ねて、2011年の夏のあいだ、アイスショーで滑りつづけた。

「ほんとうにスケートをやめようと思いました」と羽生。「生活することすらも精いっぱいで、ぎりぎりの状態でした」

その気持ちを変えたのは、仙台の人々のあと押しだった。その中には2006年トリノ・オリンピックの女子シングル金メダリスト、荒川静香も含まれる。彼のスケート人生を支え、精神的にも支えてきた。

羽生は言う。「いいことができたんじゃないかな、恩返しができたなというふうに思います」

2012年3月、羽生は世界選手権で驚きの銅メダルを獲得。その才能に磨きをかけるため、トロントに移り、オーサーに師事した。オーサーはカナダ人でオリンピック銀メダルに2度、輝いており、韓国のキム・ヨナを指導して2010年のバンクーバー・オリンピックで女子シングルの金メダルへと導いた男だ。

コーチ陣のひとり、トレーシー・ウィルソンによると、羽生は地震について多くを語らないという。しかし、彼女はこう付け加える。「あれだけ恐ろしい体験をすると、自分の中のスケートの位置が確固たるものになるんです。自分のしていることを、これまで以上に客観的に見つめられるようになる。そういう意味で、震災という悲劇を経験したことによって、彼はあの若さで、瞬く間におとなになってしまったのです」

残酷だが、そのつらい経験が羽生を駆り立てているのだとウィルソンは話す。

「自分のしていることが、ある日を境に、国のため、隣人のためになる。より崇高な目的に向かって歩きだすと、それが自分を次のレベルへと押し上げてくれるんです」

2月14日、羽生は幸運の印である、あざやかな緑とピンクのラインストーンのついた衣装を身にまとっていた。彼は縁起をかつぐタイプなのだ。そして、いつものようにしゃがみこむと、だれの顔も見ることなく、フェンスからうしろ向きに滑っていった。そして、演技がはじまった。この日の彼は、大いなる幸運に恵まれたわけではなかったが、オリンピックで優勝するにはじゅうぶんだった。

羽生は、自分が優勝したからといって、復興に直接、手助けになるわけではないという。自分には「なにもできてない」と感じ、無力感をおぼえているという。しかし、彼は金メダルを手にした。きっとこれが出発点になる。

「そこから復興や震災のためにできることがあるんじゃないかなと思っています」羽生はそう語った。

※テン選手は現在、21歳ですが、記事掲載当時は20歳です。当時の感染症やけがについてはこちらの記事に載っています。また、2013年3月17日、世界選手権後のインタビューもおすすめです。

※『蒼い炎』内の記述については、一部、同書より抜粋させていただきました。
また、羽生選手の発言については、英文和訳ではなく、なるべく本人の言葉を引用しました。

………………………………………………………………………………………………

考えてみれば、この瞬間から、私の中の時計は止まっていたように思います。
テレビや雑誌で彼の顔を見ない日はなくなりました。
世界選手権が終わって、ひと段落ついたとき、仕事を再開するまでの時間つぶしくらいの軽い気持ちで、ブログをはじめました。

羽生選手が海外でどんなふうに紹介され、彼の周囲の人が彼についてどう語っているのか、伝えたいと思ったから。
そしてもし、それを読みたいという方がいらっしゃるなら、すこしでもお役にたちたかったから。
だけど、そろそろ止めていた時計を動かして、私も前に進み出そうと思います。

ウィンストン・チャーチルの有名な言葉があります。
"Now this is not the end. It is not even the beginning of the end. But it is, perhaps, the end of the beginning."
「これは終わりではない。終わりのはじまりですらない。そうではなくて、これはおそらく、はじまりの終わりなのだ」
※これは戦争に関する発言なのですが、そこはスルーしていただくとして。

日本での42公演におよぶアイスショーも終わり、彼はまたクリケットに戻って、あるべき理想の自分を追いかけていくのでしょう。
私も、ブログはちょっと小休止して、あるべき自分を取り戻したいと思います。恩師から託された仕事をきちんとこなし、ずっと上の空ですごしていた私をあたたかく見守ってくれた家族とも向き合い、地に足をつけて暮らしていきたい。
羽生選手をこれからもずっとずっと応援していくために。

以前にも書いたように、羽生選手の記事が出たら、すぐにご紹介します。
DIMの方からはほかにもふたつ宿題を出されているので、時間ができたら、そちらも訳してご紹介するかもしれません。
"Change"の訳詞のリクエストもありましたし。

それまで、しばしのお別れです。
ほんとうの終わりじゃなくて、これをはじまりの終わりにできますように。
いつも読んでくださっている方々に、心からの愛をこめて。

※事情により、コメント欄は閉じさせていただきます。
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[ 2014/07/20 17:40 ] 羽生結弦 | TB(-) | CM(-)

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